もくじ
「作品主義」と「スター主義」
劇団四季は「作品主義」の演劇団体と言われています。劇団四季の公式サイトにはこのような理念が謳われています。
四季の舞台に貫かれている厳格な実力主義です。テレビや映画などで有名なスターを、その知名度を生かしてキャスティングすることはありません。舞台俳優にとって重要なのは、知名度よりも観客を感動させる技術と能力です。俳優は作品を輝かせるために存在するのであって、その逆ではありません。
(劇団四季公式HPより引用)
つまり、作品は役者を際立たせるための道具ではなく、素晴らしい舞台芸術をつくりあげるために役者が存在しているということ。
劇団四季はこのような「作品主義」であることから、劇団独特の文化があります。
例えば、所属俳優たちは大々的にSNSをやっていません。役者のプロフィールは公演パンフレットに名前と経歴が掲載されているだけで、それ以上の余計な情報はありません。
つまり、徹底的な作品第一となっているわけです。
四季は全ての実力ある俳優たちに門戸を開き、公平なオーディションを通してキャストを決定します。日本の四季以外の劇団や興行会社では、これとは逆の「スター主義」 を採るところも少なくありません。しかし四季が、年間300万人強という一劇団としては日本最大の観客動員を実現しているのは、作品のクオリティを最優先に考える舞台造りに、多くのお客様が共感してくださっているからに違いありません。
(劇団四季公式HPより引用)
逆に、例えば宝塚歌劇団は「スター主義」であると言われています。作品主義とは真逆に、出演する役者が誰であるのかを大々的にアピールします。
つまり、役者個人の個性も観客を惹き込む大きな要素となっています。
東宝ミュージカルは中庸主義?
一方、主に帝国劇場を中心としたミュージカルを展開する東宝は、作品主義とスター主義のちょうど中間であると考えています。
知名度の高い芸能人をキャスティングして集客を狙うような作品もありますが、基本的には作品の魅力も役者の個性もどちらも強調する作品展開です。
どちらの主義にもメリット・デメリットはありますし、「●●主義だから良い悪い」なんて話ではありません。私自身は良いとこどりである東宝作品がいちばん居心地がいいし、しっくりきます。
しかし、普段東宝作品を観る機会が多いせいか「作品主義」はやはり不思議な感じがします。批判ではなく、純粋に疑問を感じることが多いのです。
東宝ファンが抱く作品主義への疑問
①目当ての俳優ではない回だった時は?
劇団四季の公演は基本的に数か月に渡るロングラン公演です。そのため、1つの役に複数人のキャストがいます。しかし、回ごとにどのキャストが登壇するのかは毎週月曜にまとめて発表されます。
劇団四季以外の主催作品の場合は、数か月も前からキャストスケジュール表が発表されます。つまり、観客はどのキャストで観るか予定を立てられるわけです。
劇団四季にお目当ての役者がいる人は、自分が確保した回が観たい役者ではない回とわかったら、チケットは交換または譲渡するのでしょうか。
「そんなの人によるだろ!」と言われてしまいそうですが、結構気になっているポイントなのです。キャストスケジュール表がある東宝が好きな筆者ですらスケジュール管理に苦難しています。チケット交換・譲渡派の劇団四季ファンって忙し過ぎません?
しかも遠征するファンの人もいますよね。果たして自分がお目当ての役者で観れるかどうかもわからないのに、新幹線や飛行機に乗る勇気は本当に尊敬する。それともキャストが発表されたら弾丸遠征を決め込むのだろうか・・・
②この人が観たい!という役者ができたら
劇団四季の中に特定の好きな役者ができてしまった人は、好きな役者が四季に所属しつづけることに苦悩することもあるんだろうか?
特別応援している役者が劇団四季を退団すれば、その後はキャストスケジュールなるものが存在する世界で活動することになるでしょう。そうすればその役者が登壇する回だけ何回も観ることができます。もう毎週月曜のキャスト発表に振り回されることはなくなります。
逆に筆者自身の好きな役者が劇団四季に入団してしまったら、きっと心底落ち込みます。自分が確保したチケットの公演日が他のキャストの日だったらどうしよう・・・という不安がずっと付きまとうことになるのでは、と思ってしまいます。
それともむしろ「劇団四季で活躍する●●さんが好き」という人がマジョリティなのかなあ。東宝ファンの視点から見ると、特定の目当ての役者がいる劇団四季ファンは体力的にも精神的にも相当辛いものがあるのでは?と余計なお世話で心配してしまうのです。
③キャストによって作品の印象は本当に変わらないの?
劇団四季は作品主義であるため、キャストによって作品から受け取る印象や世界観が変わらないように徹底されています。主演がABCさん3人いるならば、Aさん、Bさん、Cさん、誰の回で観ても同じ作品とならなければいけません。
一方で宝塚や東宝はまた違います。基本的にはどのキャストでも大きく印象が変わらないようになってはいるものの、劇団四季よりはキャストによって受け取る印象が随分異なることが多いかと思います。ダブルキャストそれぞれでセリフや細かい段取りが違うことも多々あります。
しかし、劇団四季は本当に誰で観ても同じ印象を受けるんだろうか?とふと疑問に感じてしまう。
「ぶっちゃけ実際はキャストによって結構違うよ」「でも大声で言いづらいだけ」なのかな。
もし、キャストによって個性を出さないようなつくりであるにも関わらず受け取る印象が異なるのであれば、その理由は一体なに?そうさせる要素とは?
抑えても抑えても溢れ出てしまう役者の生まれ持っての資質や佇まいがそうさせるのかな。もしそうだとしたら、スゴいことだと思いません?どれだけ個性を抑えても、それでもなお爆発するナチュラルボーン魅力ということです。
筆者自身も劇団四季の作品をたまに観劇しますが、キャストを見比べるほど特定の四季公演を見まくったことはありません。だから、キャストによる違いがどれほどのものなのか気になるのです。
みんな違ってみんな良い
作品主義だのスター主義だの色々あるけど、自分は結局ミュージカル自体が好きです。ミュージカルとして面白ければ、どんな主義でも構いません。このサイト名の「ミュージカル主義!」はそういった思いから付けたものです。
とはいえ、劇団四季の作品主義という理念に最近少し興味を抱いています。成り立ちについてもそうだし、令和の劇団ファンがどう捉えているかもそう。それに自分が好きな東宝作品のポジションを認識したのも、作品主義という考え方があるおかげです。まさに外側を知って内側を理解する。
だから、作品主義についてもっと詳しく理解出来たら、観劇というものがより一層奥深いものになるだろうなぁ・・・とぼんやり考えています。