長い冬が過ぎれば 光そよぐ春が来る。
これ、ミュージカル『フランケンシュタイン』の「孤独な少年の物語」という曲の中の一節です。主人公ビクターを心配する姉エレンが歌う楽曲の中に登場します。
『フランケンシュタイン』はヨーロッパが舞台の作品なので、地名や人物はカタカナのオンパレード。基本のベースはこてこての西洋文化なのに、それでもどこか侘び寂びを感じさせるような艶っぽさがこの作品の魅力の1つだと思っています。
「長い冬が過ぎれば 光そよぐ春がくる」
まるで風流な古典でも読んでいるかのような心地良さを感じます。直接的な”和”を彷彿とさせるワードは一切ないのに、どこか独特の艶があって好きなんです。
『フランケンシュタイン』は雪解けを願う物語
そのあとに続く「いつも神に祈った 呪い消えるように」という歌詞からもわかる通り、この作品では”雪解け”が1つのテーマになっていると思うんです。
フランケンシュタイン一族と町人たちとの間にある長年の確執という意味の雪解けでもあるし、ビクターとジュリア、ビクターとエレンもそう。もちろんビクターと怪物も。
つまりは、長い時間をかけて降り積もってしまった人と人との軋轢が溶けていくことをエレンが切に願うも、虚しくその全てが失敗に終わってしまう物語だと思うのです。
雪解けを願う想いとは裏腹に、最終地点の舞台は皮肉にも決して雪が溶けることのない北極という場所。
冬が過ぎるどころか永遠に冬が終わらない場所で弟が息絶えたなんて、長い冬の終わりを願う当のエレンは知る由もない。うーん、切ない・・・
一族の呪いを永遠のものにしてしまったアンリ
雪国に住んだ経験のある人ならわかると思うのですが、寒くて辛い冬の期間は「どうせなら寒さを楽しもうよ!」なんて気には一切ならないんですよね。
最初のほうは寒さを楽しむ努力をするんだけど、どうやったって一向に降りやまない雪と明けない視界に心が折れてしまう。そのあとはただ、雪が解けて暖かくなってくるのをただひたすらにじーーーっと待つだけ。
エレンもきっと、最初のほうは自らも町人たちに働きかけて仲を再興しようと彼女なりに努力したと思うんです。でも何をやっても煙たがられ、唾を吐かれるだけ。ある程度年月が経って表面的には仲直りしても、町人たちの心に宿る不信感だけはエレンにはどうすることもできない。
だから、神に祈りながら一族の呪いが消える日をただじっと待つだけ。そして、長い冬が過ぎるのをひたすら待っていたところに突如現れたのがアンリという存在。
ある意味、彼の登場でフランケン一族の呪いは永遠のものになります。そう、アンリこそが春の到来を決定的に断絶した張本人だったのかもしれません。
濱田めぐみエレン、どうかカムバック・・・
再演のフランケンには初演のときほど艶や憂いを感じなくなりました。何故か?濱田めぐみさんがいなくなったからだと思います。彼女こそ、日本版『フランケンシュタイン』の独特の仄暗さを体現していたキーマンでした。
再演のエレン役の露崎さんが悪いと言っているわけじゃないですよ。ミュージカル初挑戦というハンデがありながらも、素晴らしい健闘だと思います。日に日に進化していくお芝居や役作りからも、非常に真摯にマメに取り組んでおられることが伝わってきます。
きっと外野には到底想像もつかないほどの、とてつもないプレッシャーがあったはずです。
露崎さんのエレンは違う記事でも書いたように、すごく普通の人っぽい。亡霊さえなければ、どこにでもいる明るく健気なお姉さんという印象。だからこそビクターの異常性が際立つので、筆者はこの普通っぽさもすごく好きなんです。
エレンが普通っぽいからこそ、ビクターとアンリの二人だけが人知を超えた狂気の世界へ一線超えてしまったことが初演よりもシビアに伝わってくる。
それでも、日本版フランケンの独特の世界観の中枢は濱田さんの禍々しいエレンだったんだなぁと、再演を観て思ってしまう。「呪われた一族」を体現しているような息遣いや目線の動かし方だった...逃れられない悲劇を予感させる不穏な女性そのものだったと思う。
ミュージカルという文化の面白いところは、キャスト変更という新陳代謝を図り、血を変え肉を変えながら作品が永遠に生きていくこと。キャスト変更という営みにいちいち突っかかっているようなら、長い目で見ればミュージカルを楽しめなくなってしまう。
それはわかってるよ・・・でもやっぱり濱田さんが歌う「長い冬が過ぎれば 光そよぐ春がくる」の一節を聴きたい。濱田めぐみのエレンをもう一度観たい。